こんにちは。ピアノ教師・渡邊智子です。
2020年2月11日(火・祝)、室内楽のコンサートに出演します。現在、絶賛練習中!!
このコンサートのプログラムノートを書くに当たり、それぞれの曲について色々と調べました。が、プログラムの解説文は字数制限があって、調べた内容の大半を削らざるを得なかったのです。なんか残念…。
ということで、調べた内容を記事に残しておくことにしました。
今回は、コンサートのオープニングを飾るサティの『ジュ・トゥ・ヴ』について♪
サティってどんな人?
幼少期から青年期
エリック・サティ Eric Satie (1866-1925)は、ドビュッシーやラヴェルらと同時代に活躍したフランスの作曲家です。
フランス北部ノルマンディー地方の海沿いの街オンフルールで、フランス人の父親とスコットランド人の母親の間に生まれました。そして、なかなか波乱万丈な幼少時代を過ごしています。ざっと以下のような流れです。
父の転職
↓
パリ移住
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母の死
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オンフルールの祖父母に育てられる
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祖母の死
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父の住むパリへ再移住
父、祖父ともに音楽好きだったようで、教会のオルガン奏者にピアノを習うなど、幼少期から音楽を学べる環境は与えられていました。
パリで父と暮らすようになった頃、13歳のサティはパリ音楽院に入学します。しかし授業がつまらなかったようで、真面目に取り組まず成績は良くなかったとか。結局、21歳で音楽院は中退してしまいました。実際、授業の内容は低レベルだったみたいです。
その後どうしたかというと、なぜか軍隊に志願入隊。わずか1年で除隊されるのですが…。それも、わざと気管支炎にかかったのが原因だそうです。
以上のようなエピソードから、サティは「規律に沿った」ものが嫌だったと想像できます。「反アカデミズム」や「反骨精神」というキーワードも、サティを語る上でよく用いられています。
音楽家として
音楽院も軍隊も辞めて、その後のサティはモンマルトルで一人暮らしをしながら、カフェやキャバレーでピアノを弾く生活を始めました。
19世紀末のモンマルトルといえば、様々な芸術家たちが集まった街として知られています。サティがピアノを弾いていた「シャ・ノワール(黒猫)」というキャバレーにも、新進気鋭の芸術家たちが出入りして、活発な議論を戦わせていたそうです。
ドビュッシーと知り合ったのもこの頃で、方向性は違っていても認め合う間柄となりました。
30代になると、サティはパリ郊外のアルクイユに引っ越します。生活は貧しく、相変わらず酒場のピアノ弾きをしていました。
『ジュ・トゥ・ヴ』が生まれたのは、この時代です。サティは生涯で50作程のシャンソンを書き残しましたが、その多くは30代の頃に書かれています。
39歳になったサティは、音楽修行のやり直しとして、設立されたばかりのスコラ・カントルムに入学しました。この学校は、パリ音楽院に対抗して作られたという背景があり、その点サティと相性が良かったのでしょうか。3年間しっかり勉強して、最優秀の成績で卒業したそうです。
40代のサティ、作曲家として名を知られるようになり、脱・貧乏生活?
とはいかなかったようです。「貧乏が芸術家にとっての理想である」とのポリシーがあり、提示された作曲委嘱料が高すぎるからと値下げさせて引き受けた、なんていう理解しがたいエピソードまであります。(『スポーツと気晴らし』)
49歳で詩人のジャン・コクトーに出会ったのは、大きな出来事でした。それをきっかけにバレエ作品『バラード』が生まれ、これが衝撃の話題作になったことで、サティ自身のキャリアアップにもつながりました。その後も『家具の音楽』などの話題作を世に送り出しています。
結局、59歳で亡くなるまで、アルクイユの散らかった部屋での貧乏暮らしは続きます。物が捨てられない、片づけられない男だったみたいです。そんな中、音楽に真摯に向き合い、晩年まで時代を一歩先行く作品を生み出し続けました。
サティの性格が分かるエピソード
- 部屋は汚かったが、身だしなみは整えていた。
- 同じ服を何着も持ち、いつも同じ格好をしていた。スティーブ・ジョブズみたいですね。サティの場合、タートルネックではなく、シルクハット&蝶ネクタイ&ビロードの黒い服&とがった靴でした。
- 傘を集めていて、いつも持ち歩いていた。傘で決闘したこともありました。
- エソテリスト(秘教主義者)。薔薇十字団に入っていました。
ジュ・トゥ・ヴについて
サティの音楽
サティは、時代を先取りした人でした。
例えば、長調と短調の「調性」に基づいたルールを破り、「教会旋法」を使って「無調」という新しい概念を生み出しました。
『ヴェクサシオン(嫌がらせ)』という酷い題名の曲では、同じモチーフを840回も繰り返し演奏します。これは、後のミニマル・ミュージックにつながりました。
そして「家具の音楽」というアイデア。
家具のように「日常に溶け込み意識されない音楽」を意味します。サティは、自身の音楽について「注意を払わないで」と言ったそうです。これって、今や当たり前にあちこちで流れているBGMのことでは?
こういった斬新な手法は、様々な芸術家たちに影響を与え、作曲家では特にラヴェルや「六人組」が尊敬を示していました。
※六人組…デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、オーリック、プーランク
ジュ・トゥ・ヴの解説
ここから、ようやく曲自体の解説に入ります。前置きが長かったですね…。
前項で、サティの前衛的な部分をアピールしてしまいましたが、『ジュ・トゥ・ヴ』はとっても馴染みやすい素敵な音楽です。
1900年に作曲されたシャンソンで、『ワルツと喫茶店の音楽』という歌曲集に収められていたそうです。この曲だけ有名になってしまいましたね。
作曲当時のサティは34歳。前述した通り、酒場でピアノを弾いて暮らしていました。そういった場所で歌う歌手のために、シャンソンを多く作曲した時期でもあります。
この曲は、やはり酒場で知り合った歌手のポーレット・ダルティ Paulette Darty (1871-1939)のために書かれました。
ここで、ダルティについて少しだけ↓
最初はピアニストとしてデビュー。その後、オペレッタで活躍。『ジュ・トゥ・ヴ』が書かれた頃は、「スローワルツの女王」として人気歌手になっていた。
『ジュ・トゥ・ヴ』が優雅な3拍子のワルツとして書かれているのは、「スローワルツの女王」=ダルティの存在があったからなのですね。
歌詞はアンリ・パコリー Henry Pacory (1873-没年不明)によるもの。(この方については、詳しい情報が得られませんでした。)
詞が先にあって、サティが後から曲を付けるかたちで『ジュ・トゥ・ヴ』は完成しました。ジュ・トゥ・ヴ(Je te veux)とは、以下のような意味です。
Je = I (私)
Te = You (あなた)
veux = want (ほしい)
この題名から想像される通り、とにかく熱烈な愛の歌です。
現在歌われている歌詞には「女性版」と「男性版」の2種類があって、それぞれ言い回しは違うのですが、どちらも言っている内容はこってりした愛の台詞。偏見かもしれませんが「フランスっぽい」と思ってしまいます。オリジナルの歌詞は女性版で、男性版の方が後から作られました。
余談ですが、Googleで「ジュ・トゥ・ヴ 歌詞」と検索すると、女性版の歌詞が表示されて日本語への翻訳もしてくれます。便利な時代ですね!
両方の歌詞と対訳を載せているサイトもあるので、興味のある方は調べてみてください。
このように、元々はシャンソンとして書かれた曲ですが、後にサティ自身がピアノ・ソロ版へ編曲しています。このピアノ版も人気レパートリーになっていますね。
以上、『ジュ・トゥ・ヴ』とその作曲家サティについてでした。
何かの参考にしていただければ幸いです。