こんにちは。ピアノ教師・渡邊智子です。
2020年2月11日(火・祝)、室内楽のコンサートに出演します。現在、絶賛練習中!!
コンサートのプログラムノートを書くに当たって調べた内容をを記事にまとめています。
前回は、コンサートの最初に演奏するサティの『ジュ・トゥ・ヴ』について書きました。良かったらこちらもご覧ください。
今回は、コンサートの2曲目に演奏する『くるみ割り人形』について。
チャイコフスキーってどんな人?
音楽家への道のり
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー Pyotr Ilyich Tchaikovsky(1840-1893)は、ロシアの作曲家です。鉱山都市として有名なウラル地方のヴォトキンスクで生まれました。父親は製鉄所の所長、母親はフランス系貴族の血をひく才媛で、ともに楽器をたしなむ音楽好きな一家でした。
チャイコフスキー自身も5才からピアノを習い始めています。周囲に音楽が溢れる環境の中、感受性の豊かな子供に育ちました。
だからと言って、チャイコフスキーが若い頃から音楽家への道まっしぐらだったかというと、そうではありません。
父親の転職に伴い、一家はモスクワ→アラバエフスク→ペテルブルクと移り住むことになりますが、その間に法律学校へ入学しています。これは両親の意向だったようです。
在学中に母を亡くすという悲しい出来事も体験しました。
その後19歳で学校を卒業すると、すぐに法務省で働き始めます。ピアノは学生時代も習い続け、音楽への興味は持ち続けていました。
そんな折、作曲家アントン・ルビンシュタインを中心にロシア音楽協会が設立され、付属の音楽教室が開設されました。チャイコフスキーは、その教室で作曲と理論を学び、そこから発展して設立されたペテルブルグ音楽院に第1期生として入学。音楽の道へ進むことを決め、法務省は23歳で退職しました。
25歳でペテルブルグ音楽院を卒業すると、すぐ翌年、創立されたばかりのモスクワ音楽院で教授に就任しました。この職は約12年間続けることとなります。
チャイコフスキーは、ペテルブルグ音楽院とモスクワ音楽院というロシアを代表する二つの音楽院に創設時から関わっていたというわけです。まさに、ロシア音楽界のアカデミズムを背負った音楽家と言えるでしょう。
ロシアの職業作曲家第一号であり、現在においてもロシアを代表する作曲家として位置づけられています。
チャイコフスキーのバレエ音楽
チャイコフスキーは、生涯で3作のバレエ音楽を残しました。
初めてのバレエ作品は、1877年に初演された『白鳥の湖』です。
当時37歳。私生活は波乱に満ちていました。
チャイコフスキーは、アントニーナという元音楽院生と結婚するのですが、ほぼ一緒に過ごす事はないまま破綻しています。チャイコフスキーが同性愛者であることを隠すために結婚したとも言われており、お互い精神を病むような悲惨な結婚生活でした。
そんな苦境の中、フォン・メック夫人との出会いは救いとなりました。鉄道王の未亡人であり大富豪の彼女は、チャイコフスキーに心酔し、この頃から約13年に渡って支援を続けることになります。
『白鳥の湖』の初演は失敗だったと言われています。
当時のバレエ音楽は、踊りの技巧を見せるためのパターン化された様式で作曲されていました。単純な「伴奏」としての音楽が求められていたのです。
対して、チャイコフスキーの音楽は複雑に作りこまれ、「音楽」としての完成度が高すぎました。
例えば、調性の使い方。人物間の関係に調性の関係を当てはめて、それぞれの登場人物に調性を割り当てています。これはアダンのバレエ『ジゼル』で用いられた方法を踏襲しています。
更に、バレエ音楽としては初めてライトモティーフを用いた作曲を試みました。
演出や振り付けが、この音楽の芸術性に追いつかなかったため、バレエ作品としては評価が下がってしまったようです。
チャイコフスキーの死後、弟モデストが台本を改訂し、プティパとイワーノフが振り付けた「蘇演」が行われ、そこで『白鳥の湖』の評価が一気に高まりました。現在、私たちが観る『白鳥の湖』は、この公演での改訂版が元になっています。
初めてのバレエ音楽『白鳥の湖』が評価を得られなかったチャイコフスキーは、その後10年以上バレエ音楽に手を付けませんでした。
2作目の『眠りの森の美女』が初演されたのは1890年のことです。
マリインスキー劇場の支配人ヴセヴォロジュスキーから依頼され作曲しました。ヴセヴォロジュスキーは、当時衰退傾向にあったロシアバレエの改革を目指しており、チャイコフスキーに新しいバレエ音楽を期待したのでしょう。
『眠りの森の美女』の音楽では、より効果的にライトモティーフが用いられています。
「善」の象徴・リラの精と「悪」の象徴・カラボス、それぞれのモティーフを交互に登場させ、「善悪の対立」を軸にした物語を作り上げたのです。
チャイコフスキーは、踊りの「伴奏」でしかなかったバレエ音楽に改革をもたらし、バレエ芸術の発展に貢献しました。
3作目にして最後のバレエ作品『くるみ割り人形』については、次に詳しく書いていきます。
バレエ『くるみ割り人形』について
制作の経緯
バレエ『くるみ割り人形』Op.71は1891年に作曲が開始されました。『眠りの森の美女』に続いて、マリインスキー劇場から新作のバレエ音楽として委嘱された作品です。
原作は、E.T.A.ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王子』をデュマがフランス語に訳したものです。これを元にプティパが台本を書きました。
振付もプティパが担当でしたが、急病によりイワーノフに引き継がれました。
初演は1892年、同じくチャイコフスキー作曲の歌劇『イオランタ』と2本立てで上演されました。『イオランタ』もおとぎ話的な内容なので、『くるみ割り人形』と相性が良さそうですね。
当時のチャイコフスキーの状況はどうだったかと言うと…
1890年、フォン・メック夫人からの援助が打ち切られる。
1891年、初めてのアメリカ演奏旅行。その直前に妹サーシャが病死。
心身ともに疲れていたことは想像できます。『くるみ割り人形』の作曲も、すぐには取りかかれなかったようですが、新しい楽器チェレスタへの関心などから創作意欲を取り戻し、作品を完成させるに至りました。
初演は、観客には喜ばれたようですが、批評家たちには不評でした。原因は、振り付けと台本ではないかということです。
チャイコフスキーは、『くるみ割り人形』初演の翌年1893年に突然亡くなってしまいました。あまりに急だったため自殺説、病死説、様々取沙汰されていますが、いずれにしても『くるみ割り人形』が人気を得るのを見届けられなかったのは残念な気がします。
音楽的な特徴
チャイコフスキーは、『くるみ割り人形』の中で新しいチャレンジを色々行っています。
まず、前述した新楽器チェレスタの使用。「金平糖の踊り」で使われている金属的な音が特徴の楽器です。1886年にパリで開発されたこの楽器を、1891年にパリで見つけたチャイコフスキーは、誰にも知られないように注意して購入したそうです。
それから、開発されたばかりの新しい奏法も取り入れました。管楽器のフラッター・タンギングという奏法で、風が吹いているような震える音を出すことができます。
また、第1幕「雪の精」の場面では、バレエに合唱を登場させるという新しい試みも見られます。
玩具(太鼓やラッパ)を使って子供の世界を表現しているのは、同時期に作曲された歌劇『スペードの女王』でも試みた手法です。
『くるみ割り人形』は、チャイコフスキーのチャレンジ精神に溢れた作品だったのですね。
最後に、チャイコフスキー自身の編曲による管弦楽組曲『くるみ割り人形』Op.71aについて、簡単に紹介しておきます。
『白鳥の湖』『眠りの森の美女』も組曲として演奏会に載ることはありますが、チャイコフスキー自身が編集した組曲版は無いため、構成が流動的だったりします。その点、『くるみ割り人形』だけは、本人が自作を指揮する演奏会のために作った組曲であるため、構成曲、曲順は以下の通りで決まっています。
オーケストラの演奏会でも人気の高いレパートリーです。
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第1曲 小序曲 (Ouverture miniature)
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第2曲 行進曲 (Marche)
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第3曲 金平糖の精の踊り (Danse de la Fée Dragée)
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第4曲 ロシアの踊り(トレパック) (Danse russe (Trepak))
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第5曲 アラビアの踊り (Danse arabe)
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第6曲 中国の踊り (Danse chinoise)
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第7曲 葦笛の踊り (Danse des mirlitons)
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第8曲 花のワルツ (Valse des fleurs)
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回も曲目解説シリーズを続けたいと思います。