こんにちは。ピアノ教師・渡邊智子です。
2020年2月11日(火・祝)、室内楽のコンサートに出演します。現在、絶賛練習中!!
コンサートのプログラムノートを書くに当たって調べた内容をを記事にまとめています。
良かったら、前回までの記事も合わせてご覧ください。
サティの『ジュ・トゥ・ヴ』について。
チャイコフスキーの『くるみ割り人形』について。
今回は、ビゼーのオペラ『カルメン』を取り上げます。
ビゼーの人生
ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet (1838-1875)は、フランス、パリ生まれの作曲家です。
父は声楽教師、母はピアノを弾いたそうです。音楽を愛する両親の元で育ち、幼い頃から才能溢れる「天才少年」でした。
9歳でパリ音楽院に入学すると、ピアノとオルガンで一等賞を獲るなど、さまざま受賞を重ねていきます。
ビゼーのピアノの才能は、大ピアニストであるリストにも認められるほどだったそうですが、彼はさらに作曲の勉強にも励み、1857年(19歳の時)にカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を受賞しました。
ローマ大賞とは、毎年開催されるフランス美術アカデミー主催のコンクールで一等を獲った人に与えられた賞です。現在は廃止されましたが、当時は、フランスの芸術家たちにとって大変権威ある賞でした。歴代受賞者にはドビュッシー、ベルリオーズらがいます。一方で、ラヴェルが受賞できなかったことは、当時大きな騒動となりました。権威=成功ではないことを物語るエピソードだと思います。
さて、ビゼーの話に戻りますが、在学中に師事したグノーとアレヴィからは大きな影響受けました。ビゼーがオペラ作曲家としての活動に拘ったのは、師匠たちによるところがあるのかもしれません。
グノーは、オペラ『ファウスト』の作曲家。J.S.バッハの前奏曲に旋律を乗せた『アヴェ・マリア』も有名です。
アレヴィは、そのグノーの師であり、フランスのオペラ作曲家として重要な地位を占める人物です。代表作はオペラ『ユダヤの女』。後にビゼーは、アレヴィの娘と結婚しました。
ローマ大賞受賞者は、ローマへ留学することになるのですが、ビゼーはその留学中からオペラの作曲に取り組んでいます。ですが、なかなか成功には至りませんでした。
初めて認められたオペラ作品は、1863年(25歳)に発表した『真珠採り』です。
1872年(34歳)には、劇音楽『アルルの女』を発表。アルフォンス・ドーデの書いた劇に付けた音楽で、劇自体の評判は良くなかったようですが、ビゼーの音楽は高い評価を得ました。この作品は、今日でも『カルメン』と並ぶ代表作として親しまれています。
では続いて、オペラ『カルメン』についての解説に移ります。
オペラ『カルメン』について
制作から初演まで
『カルメン』は、1872年にパリ・オペラコミック座から新作オペラの依頼を受け作曲されました。
オペラ・コミックというのは、台詞を含むオペラのことです。レチタティーヴォを用いるグランド・オペラに対して、軽めのオペラという位置付けがされています。グランド・オペラを上演するオペラ座が大劇場、オペラコミック座は小劇場と考えると分かりやすいと思います。
『カルメン』をご覧になったことがある方は、ここで違和感を感じるのではないでしょうか?
『カルメン』は軽いオペラ!?ではないですよね…。
でも、当初はその想定で書かれていたのです。
作曲期間は1872年から1874年です。残念なことに、完成までの経緯を記した書簡などが残っていないため、創作過程の詳細は明らかになっていません。
メリメの原作を元に台本を手掛けたのが、リュドヴィック・アレヴィとアンリ・メイヤックの2人です。このコンビは、オッフェンバックのオペレッタの台本で成功を収めていました。
リュドヴィック・アレヴィは、ビゼーの師・アレヴィの甥で、妻のいとこに当たります。アレヴィ一家はそろって同じアパルトマンに住んでおり、作品についての相談も口頭で行われていたため、書簡などの資料が残らなかったようです。
『カルメン』は、1875年3月3日にオペラコミック座で初演されました。
評判は良くありませんでした。
前述したように、オペラコミック座は軽めのオペラを上演する場所です。観客は、気軽に楽しめる内容の作品を期待して足を運びます。
そんな観客たちにとって、『カルメン』の物語は衝撃が強すぎました。カルメンの奔放さへの嫌悪と、残酷な結末が娯楽として楽しめないという理由で、評価が得られなかったのです。
そして、初演から3か月後にビゼーは急死してしまいます。
高い評価は得られなかった『カルメン』ですが、そこそこの集客はできていたようで、ビゼーの生前にウィーンの劇場から上演オファーをもらっていました。その上演前にビゼーが亡くなってしまったのです。
そこで、友人エルネスト・ギローがウィーン公演のための編曲を行いました。台詞部分をレチタティーヴォに変え、バレエを加えて、オペラ・コミック仕様からグランド・オペラへと生まれ変わらせたのです。
この編曲が功を奏し、『カルメン』のウィーン公演は大成功を収めました。
このグランド・オペラ版『カルメン』が、今日私たちの知っているものになるわけです。
因みに、元々のオペラ・コミック版に興味がある方は、音楽学者フリッツ・エーザーがオリジナルを復元したスコアに基づいて上演された、2012年の録音がありますので参考まで↓
『カルメン』は、皮肉にも作曲者の死後に名作としての評価を獲得しました。チャイコフスキーやブラームスらも絶賛し、オペラ史全体を見た時にも重要な作品となっています。
『カルメン』の特徴
発表当時、『カルメン』は異色のオペラとして扱われました。それまでのオペラと違う要素が多かったからですが、具体的にどんな点が新しかったのでしょうか。
まず、主役がソプラノではなくメゾ・ソプラノだということ。
ソプラノ歌手の高音を用いた優美で華やかな歌唱が、オペラの醍醐味と思われがちですが、カルメンという女性を描くに当たり、よりストレートに気持ちが表現されるメゾ・ソプラノの音域を用いたと考えられます。
ストーリーも、それまでのフランス・オペラとは違っていて、それが衝撃的に捉えられました。登場人物が感情を露わにする内容は好まれていなかったのですが、『カルメン』はその真逆で、ドロドロの人間臭さに満ちた愛憎劇ですね。
そして、音楽はスペイン一色。カルメンが歌うのもスペインの音楽ばかりです。
以下、例を挙げます。
●第1幕で歌う「ハバネラ」
19世紀に、当時スペイン領だったキューバの港町ハバナで生まれた舞曲。
●同じく第1幕で歌う「セギディーリャ」
スペイン、アンダルシア地方の大衆的なダンス。
●第2幕で歌う「ロマの歌」
カスタネットを持って仲間たちと一緒に踊りながら歌います。
ビゼーは、未完の作品も含めると30作余りのオペラや劇音楽を残しました。
その殆どがお蔵入り状態になっていますが、最後の作品となった『カルメン』で30作分の成功を収めたと言っても過言ではないでしょう。ビゼーがその成功を見ることなく亡くなってしまったことを思うと、なんだか切ないですね。
以上、ビゼーのオペラ『カルメン』について、私なりに調べた事を書いてみました。
最後までお読みいただきありがとうございました。